おまえは僕のものであることを忘れてはいけません。

(ミーは師匠のもの)

言いつけ通りに復唱した。
彼の言葉を幼子に刻み付けるように命じたのは随分昔の話で、今となってそれは儀式を越えて日常となっていた。
一度だって現実に姿を表したことがない男ではあったが、身寄りをもたない幼子にとって彼は師匠であると同時に親であり全てであった。
そう、生きる術を与える人。生きる意味を与える人。

(師匠はミーの全てだから、ミーの体は師匠のもの)

初めてその言葉を男が口にしたとき、子は初めて口を尖らせて見せ反論の意を示した。
ミーはとっくに師匠のものなのに。どうして。
自分の腰ほどの身長で背伸びをする幼児を、男は愛しいものにするような手つきで頭を撫でる。
けれど聡い子供には分かっていた。
男は愛しいなどといった特別な感情をあらゆる人に溢れんばかり注ぐような博愛主義者とはほど遠い人物であること。
自分は彼のいわゆる特別な人にはなれないということも。
ししょー、と舌足らずに詰め寄る小さな体を見下ろして、彼は困ったように笑って屈むと、翡翠に似た色の髪を撫で付けて接吻を落とした。

「おまえは頭の回転が早い、何やら下らないことを考えている……違いますか?」

目の高さを合わせてみると、男には目の前の子供が本当にただの子供のように思えた。
そして、見開かれた大きな瞳の中に男自身が映り込んだのを見て本当に困ってしまった。
純粋な目の奥に運命を焼き付ける自分の顔があまりにも醜かったからだ。
男は瞼を下ろし、鋭い視線を向け続ける子供の額にもキスをした。
その様子はきっと他人の目には親鳥が雛鳥に餌を与えているかのように映っただろう。

「いつか、おまえの力が必要なときが来る」

男の声は小さくて薄くて柔らかい耳に入り込み、胸の中で幼い不安を絡め取りながら一番深いところまで落ちていく。
ゆっくりと染みる声色の甘さが、子供が剥き出しにしていた憤りの息を殺した。

「それまでおまえが僕の側にいるとは限りませんからね、……保険のようなものです」

澄んだ翠色をした瞳に置いていかれた感情の残骸はどろどろに溶かされて目の色の深みとなり、幼子は消え入るような声で返事をして頷いた。

「……ずるいですー…」
「おや、何か言いましたか?」
「なんでもないですー」

この人は本当にずるい人だ、と子供は声に出さずひとりごちる。
だってずるい。
そんな、弱ったような顔で、ミーのことを愛してるみたいな声で、甘えて見せる振りをして。
ミーはとっくに知ってるのに、この力と体が師匠の矛と盾になることも、その結果ミーが死んだって師匠は痛みさえ感じないことも。
そして師匠は全部知ってて、ミーがついた嘘に重ねて嘘をつく。

「おまえを愛していますよ、フラン」

髪を撫で、額を撫で、頬を撫でる男の骨張った手を幼子は拒絶しなかった。
たとえ偽りで刹那のものであっても、男が与える施しは神からの寵愛と等しく、心地のよいものだったから。