「なんだか、夢を見ているみたいです」

不意に手が触れるほどの距離で並んでソファに腰掛けて、カップに口をつけたままのフランがそう呟いた。
間延びした口調はそこになく、本当にただ言葉が零れ落ちたのだろう、口にしたフラン自身も目を丸くしていたから。
横目でちらりと見やったベルフェゴールは、少し距離を詰めてフランの手に自分の物を重ねて問いかける。

「どうした?」
「いえ、どうしたって、ことは、ないんですけどー……」

まるでこどもを諭すような声色で語りかけるベルフェゴールと、普段の毒舌は姿を潜めた幼い喋り方のフラン。
たとえば仕事がうまくいった夜だとか、睡魔にどうしても抗えないだとか、そんな条件が揃ったときにのみ現れるふたりの一面は、
世間一般に謳われる恋人同士のようで、聞こえるはずの怒号も今は耳に届かない。
自分の鼓動と、相手の呼吸音と、陶器がぶつかる音だけが支配した部屋で寄り添うと、いつのまにか体温さえ同じになっていたことに気が付く。

「おしえて」

ソファが軋む。ベルフェゴールが更に距離を詰めた音だ。
耳元に流し込まれる吐息混じりの声がくすぐったくて身を捩りながらも、重心はベルフェゴールの側へと傾いていた。
そしてフランは一瞬見上げてベルフェゴールの顔を覗くと、切なげな目を細めた。

「本当に、なんでもないんですよー?」
「うん」
「ちょっとだけ、夢みたいだなって、思っただけなんですー」
「うん」

ベルフェゴールはただ頷いているだけであるが、多くを語りたがらないフランから話を引き出す十分であった。
心地良い間合いに気を許し合うふたりは、寒くない広い部屋で一層身を寄せ合って、わざと声を潜めて話し出す。

「なんとなく、昔のこととか思い出したりしたんですー」
「昔のこと?」
「10年前から、いろいろですー」
「ああ」
「ミーは、センパイと出会わなければ何も知らなかったんだな、とかー」

あなたに、教わらなければ知らなかったこと。
少し早く起きた朝の温もり。朝日に透かした金髪のきらめき。きつく抱き締めてミーの髪に顔を埋める癖。
何もせず寄り添って迎える昼下がりの時間の緩やかさ。あなたの部屋の方が陽が入りこむこと。ミルクたっぷりの紅茶の美味しさ。
ドライヤーを利用して髪の毛を乾かす必要性。小腹がすいた深夜に二人で頬張った誰か宛のケーキの味。満月の夜はミーたちには明るすぎること。

花の価値など分からないと言いながら歩いた庭園の彩り。庭園を抜けた丘に立つ一本の桜の匂い。
任務を終えた帰り道で見上げた花火の鮮やかさ。敢えて徒歩で帰ったのに全く苦に思わなかったこと。
隊長に内緒で初めて作った焼き芋の味。結局バレて駆けずり回った山道で落ち葉が擦れる音。
積もった雪に足跡を残しながら歩いた景色。手袋をはめるよりもあなたのポケットの中のほうが暖かいこと。

人混みに紛れるように繋いだ手の感触。随分気に入っているらしく無意識で口ずさむ異国の歌。
夜明けの海辺で当たった潮風の香り。太陽の光で尚輝く眼球よりも大きな宝石の色。世界三大珍味は大して美味しくないこと。
あなたはまるで子供のように体温が高いこと。腹の痣に触れるのを存外嫌がらないこと。瞳を露わにすることはむしろ喜ぶこと。

「センパイに出会えてよかった」

今だけ、過去のしがらみを全て忘れた。未来の確証など無くてもいいと思えた。
永遠に続く訳がないと分かっていても、それでも手を伸ばす程には愛しかった。
だからこそ、カップを取り上げるベルフェゴールの手をフランは払わなかったし、フランが寄せる唇をベルフェゴールのそれは笑みを湛えて受け入れた。
熱い粘膜が触れ合う度に新たな熱の波が生まれる音を体の奥で聞きながら、ベルフェゴールはうっすらと瞼を開く。
ピントが合わない距離で吐息を漏らしては震える白い肌に触れると、内包した火照りなど偽りであるかのようにひんやりとしていた。

夢を見ているようだと言った、おまえのほうが幻か何かに見えたよ。